死刑廃止論

僕は、かねてから、死刑反対派である。

理由は大きく分けて2つ。

一つは、冤罪の可能性を捨て切れないからである。勿論、死刑に限らず、長い間懲役を食らって、はい冤罪でした、となってもたまったもんじゃないが、死刑は文字通り取り返しのつかないことになってしまう。0.0000001%でも冤罪の可能性があるのなら、死刑なんてやめちまえ。

もう一つは、被告の育ってきた環境に憂慮すべきことが多いからである。勿論、どんな理由があろうと人を殺していいことはない。当たり前だ。しかし、彼らの話を聞いてると、もし自分が同じような環境で育てられて、彼らと同じようなことをしなかったと言い切れるかというと、それは、言い切れない。はっきり言う。人を殺さなかったとは、言い切れない。犯罪者を必要以上にバッシングする風潮が大嫌いだ。お前らにバッシングする権利なんてねえよ。彼らは、てめえらよりよっぽど人間らしいことをしてるんだよタコ。

 

もし明日世界が滅ぶとも、今日君はりんごの木を植える。

Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.

 

かの、ルターの名言である。

僕がこの言葉を知ったのは、映画「感染列島」の一節だ。

以降、この言葉が大好きになった。

 

もし、各々の人生に決められた運命(さだめ)があって、それが救いようのないものであったとしたら、君はどう生きるのだろう、いや、生きたいのだろう。

 

初恋の人と結ばれることを夢見ながら、人生を生きて何が悪い。

高嶺の花と呼ばれる女性と結ばれることを夢見ながら、人生を生きて何が悪い。

 

やっぱり、常々思うが、俺はロマンチックに生きたいんだろうな。どんだけ周りの連中から馬鹿にされようが、笑われようが、自分自身は本気でカッコいいと思ってるんだもん、病気だよ、本当に。

 

 

 

 

ps.特に、書くことがないと結局気持ちの悪い文章しか思い付かない。だけど深夜テンションで書きたかったから仕方ないやん。

それでも夢は、世界平和。

想像してみてほしい。

目の前で死のうとしてる女の子がいて、君はなんという声をかけるだろう。「きっと、生きていたらいいことあるよ」「君が死んだら僕は悲しい」などだろうか、いや、声をかけること自体、邪道だと考える人もいるかもしれない。

そっと抱きしめてやるのが正解なのか。

寂しさを紛らわすために、やれることは一体何があるだろう。

 

さて、大学生として過ごしてきて、もう10月になってしまった。しかし、依然として後期も、大学のキャンパスには週1回の1コマの授業のためにだけ登校する日々である。前期には実習という形での対面があったので、グループのメンバーとある程度仲良くなることができて、遊びに行ったり、一緒に教習所に行ったりしている。バイトにも慣れてきて、部活の先輩とも親しくなったり、ある意味大学生活っぽいことをできているのかもしれない。

 

もしかしたら、僕は「強者」なのかもしれない、と最近考えることが多くなった。

 

後期初回の対面授業の際、僕の目の前に座っている子が異質な雰囲気を醸し出していた。ヨレヨレの黒シャツに山登りに行くのかというくらいのリュックサックを背負って色んな種類の充電コードがはみ出ていた。徐ろに取り出したパソコンにカタカタ何か入力していた。

 

その子は、明らかに、「浮いていた」。

 

前期の対面の実習のグループごとで多くの人は仲良くなるわけであるが、その子は誰にも相容れず、一人で行動していた。

 

「ああ俺も一歩間違えると、こうなってたな」とふと感じた。

 

結局、月並みなことを言うが、人との巡り合わせほど重要で、偶発的なことはない。ある意味「博打」的なグループ分けによって、4年間、ないしは6年間の「心の持ちよう」に影響してくる。先程、自分のことを「強者」かもしれないと述べたが、それは他でもない、素晴らしいほどの良い人と巡り合わせに恵まれているから、「強者」にさせて頂いているわけである。

 

最近、毎晩のように、中学時代の友だちと電話しながらゲームすることが多い。僕を含めて4人であるわけだが、1人は中卒で現場で働いているヤツで、1人は通信制の高校を留年しているヤツ、もう1人はFラン大学に通っているヤツである。

時たま、しんみりとみんなから「お前は勝ち組になれるからいいよなぁ」と言われることがある。彼らの言う「勝ち組」とは一体なんなのだろうか。大企業に勤めて、良い給料を貰っているヤツが「勝ち組」なのだろうか。

からしたら、地元の友だちとワイワイ仲良く遊んでいる「君ら」の方が勝ち組なんだがな。

俺なんかと仲良くしてくれる地元のメンツは、本当に数少ない。地元が大嫌いだからこそ、大学に通える距離なのにわざわざ下宿しているくらいでもある。

その中で、俺の家庭になんの偏見も持たず、俺だけを見てくれる「こいつら」と一生仲良くしたいと心の底から感じられる。

 

「オンライン授業」は、地元の人間関係について考える良い機会を与えてくれたのではないか、と最近考えることが多くなった。本来の対面授業が行われていたら、今頃大学のメンバーと遊び呆けて、地元について考えることなんて無かったであろう。

 

「一期一会」という素晴らしい言葉がある。この言葉は、大学生のために作られたものなんじゃないかと思うくらいだ。

 

もう一度考えてほしい。目の前で死のうとしてる女の子がいて、君はなんという声をかけるだろう。僕ならこう声をかけたい。

 

「君にやるせないことがあって、とても寂しくてどうしようもなくても、僕は君と出会うことができたから、とても幸せだ。」

 

クソッタレがのさばった、このどうしようもない世の中に絶望して、死を選ぶ人が多くいる。誰か、そいつに、言ってやってほしい。

「君に出会えて幸せだ。」と。

そうしたら、きっと死なないよそいつは。

 

何かに鬱憤をぶちまけて、他人から、ろくでなしみたいな生き方をしていると思われようと、自分は自分を生きていたら良いんだよ。アホがアホしている、バカがバカしている、クズがクズしている。そんなみっともない世の中だけど、

 

それでも夢は、世界平和。

 

 

 

 

片親家庭で育つということ

 まず、片親にも2種類あると思っている。

 それは皆さんが想像する、「母子家庭か父子家庭か」、ではなく「(親の)実家が太いか、細いか」である。

 僕自身の家庭の話をすると、間違いなく(親の)実家が太かった。経済的に苦労した思い出など全く無く、高校時代には塾にも行かしてくれたし、今だって親の金で大学に通わせてもらいながら、加えて、一人暮らしもさせてもらっている。バイトだって別にそんなにしなくていいと言ってもらってるし、自分の夢も応援してもらっている。経済的に文句は全くない。

 

……「じゃあ、いいじゃん」

 

 そんな声が聞こえてきそうだが、やっぱり幼少期、思春期は節々に疎外感を感じることが多かった。はっきり言って、辛かった。

 物心ついた頃、まず最初に違和感を感じたのは「テレビ」での描写である。母親がいて、父親(その時は、父親という存在がいることも知らなかった)がいて、子どもがいて、ありきたりな家庭の描写をなにかのドラマで見たときに、違和感を感じた。そのときは、まあテレビだから、とあんまり気にしていなかったのかもしれない。

 小学校の入学式、今でも鮮明に覚えている。その日は雨だった。実はこの入学前に家を引越している関係でその地域の保育園・幼稚園の持ち上がりで既に出来上がってる人間関係の中にたった一人放り出された。今考えると、人見知りの自分にはかなりストレスだったかもしれない。だけど、そんなことはあまり気にすることでもなかった。そんなこと、どうでもよくなるくらいの衝撃を、その瞬間、受けたのだから。

 

…みんな2人いる。

 

 ああ、俺はなんか周りとは違うんだなと、この頃から意識し出したのかもしれない。

 

 自分で言うのもなんだが、自分は割と察しのいい子だった。いや、察しがいい子だと思い込んでいたのかもしれない。まあどちらでもいいが、とにかく「普通の家庭」とはどういうものか、というのをクラスメイトとの話から察知しながら、リサーチしていった。そして、なんとなく話を合わせていくようになった。そういう学校生活がこの頃から始まった。

 といっても、普段の学校生活で、家族の話が出ることはあまり多くないのであまり意識しなかった。だが、強く意識させられたのは「子ども会」だった。(「子ども会」という存在を皆さんが知っていることで話を進めるが、簡単に言えば地域の祭りやイベントの度に集まったり、集団登校、集団下校での一つの単位にもなったりするものである。)

 度々ある「子ども会」での祭りやイベントで家族同士でワイワイしてる集団の中に、俺の家族は居なかった。

 

 それも今思えば、当然だ。

 「家族」じゃないのだから。

 

 ああ、避けられてるんだな、俺の家族、と思った。学校では話を合わせていたけど、陰では、「あいつ、なんか話、合わせてるぜw」と思われてたんだろうな、と思った。

 

 もう、どうでもよくなった。

 

 みんな、知ってるのに、気を遣って家族の話題にかたくなに触れない。そんな腫れ物扱いされたら普通どうでもよくなるだろう?

 

 なあ、うん、と言ってくれよ。

 

 自分らしく生きたい、と馬鹿がよく言うが、幼少期なんて、何かのコミュニティに属していると、そいつには親同士の繋がりがあるんだから、色眼鏡かけずに「自分らしさ」だけを見てくれるヤツなんていないだろう。

 

 というわけで、周りがみてた俺の姿は、

「片親家庭の〇〇くん」であったんだろう。

 

 何か事件が起きると、「あの子は片親だからしょうがない」「片親だと大変だよね」

 

 いいから、俺を見ろよ。俺を。

 

 小3のころ、地元のサッカークラブに入った。地元でスポーツクラブをやってると、勿論、親同士の繋がりがある。なにか親同士の集まりでバーベキューなどをするという話があったときに、俺の親が呼ばれることはなかった。

 後々、話を聞いたら「あそこは大変だから」とやっぱり気を遣われていたらしい。

 そのクラブも小6までやったが、中学校でサッカー部に入ることはなかった。また同じ思いをしたくなかったから。

 それから、どんどん内気になっていって、もう周りに家庭のことを話すのもやめた。話してもいいことなんか一つもないから。本当に親しい相手にはたまに話したりするけど、努めて、できるだけ家族の話題になったら話題を変えるようにはしている。嘘は付きたくないからね。

 

 なんやかんや、のらりくらり、18年生きてきた。いつまでこんな生活が続くんだろうとふと思う。もし、恋人が出来たら、俺は一体どのタイミングで片親であることを言い出すべきなんだろう。分からない。

 片親の子どもは、片親になりやすい、とよく聞く。一回経験すると、離婚することに躊躇しなくなるんだろう。だけど、俺は絶対離婚したくないし、何か喧嘩したら、俺が悪くなかろうと絶対に俺から頭を下げると心に決めている。俺なんかを選んでくれた子のためならなんでもしたい。絶対に別れたくないから。

 

 別に笑いたきゃ笑ってくれてもいいが、

 

 俺は、俺を見てくれる人と結婚したい。

 

 

 

ps. ブログを書くために色々思い返しても、あんまり思い出せないことばっかりだ。もしかしたら嫌なことは全部忘れちゃってるのかもしれない。人間の脳みそはよくできているな。

 

 

 

 

なぜ、チビはモテないのか。

https://www.amed.go.jp/news/release_20191002-02.html (参考資料)

 

まず大前提として示しておく。

身長は8割遺伝である。

チビの子はチビ。ノッポの子はノッポ。

 

さて今回、僕が言いたいのはこんなことではない。僕がこのブログで伝えたいことは、

「チビがモテない理由は、チビだからではなく、チビであることで卑屈になる、その腐った精神に起因している。」ということだ。

 

街を歩いてみて欲しい。チビの男が同じくらいの女性と仲良く歩いている風景なんて何も不思議なことではない。

僕自身、178cmで高すぎず、低すぎず、丁度いい身長だと自負しているのだが、街を歩いていて自分より低い男性なんてゴマンといるし、自信に満ち溢れている表情に時たま嫉妬することもある。

わざわざ言うまでもないが、Twitterで「俺はチビだから」と嘆き、女をdisってる男がモテるわけがない。そもそも、チビといっても「(男性の中では)チビな方」というだけで、自分より背の高い女性なんて普通あまり見かけないと思うが……。

 

さて、少し話が逸れるが、僕は「チビが筋肉をつけだす風潮」が大嫌いだ。理由は単純で、「気持ち悪いから」である。

 

というか、そもそも論だけど、本当に女性は男性の身長なんて気にしているのか??婚活市場やマッチングアプリなどで、「聞かれるから仕方なく(身長170以上みたく)答えている」だけじゃないのか?(我々男性もおっぱいは大きい方がいいと聞かれたら仕方なく答えるだろう)

少なくとも、現実の世界で身長のことを話してる女性をあまり見かけたことがない。これは俺の交友関係が希薄なだけなのか、それとも高校までの女性の価値観と、それ以降の女性の価値観は異なってくるものなのか。

 

上述でもあったが、よく男性の身長は女性の胸に喩えられる。そりゃ大きいにこしたことはないけど、小さくたって別にそこまで気にするものじゃないだろう。逆に大きすぎると気持ち悪いとも感じてしまうかもしれない。

 

最後に、俺は女性の嫌いなところが一つある。それは「まわりくどい」ところだ。

男性の条件を語ることは大いに結構だが、じゃあ、せめてネット上でくらい正直にストレートに「顔が良い男と付き合いたい/結婚したい!」と言ったらどうなのか。学歴や身長なんて正直どうでもいいと思ってるはずだけど、なぜか、(非モテ男に希望を持たせるためなのか?)訳の分からない指標が出てくる。

 

結論:チビがモテないんじゃないチビのブサイクがモテないんだ。結局、世の中は顔である。

 

 

 

 

 

オンライン授業

さて、大学生活も慣れてきた頃だ。僕の大学は5月の中頃からオンライン授業が始まったので実質、まだ2ヶ月くらいしか大学生として授業を受けていないが、色々と得るものはあったと個人的には思う。

東京の方の大学では、秋以降もオンライン授業が決定した所もあるらしい。ぜひウチのところもそうしてほしい、と思う。以前までは早くキラキラした大学生として対面で授業、サークルなどに打ち込みたい!!などというありがちな想いでいたが…。

なぜ秋以降もオンラインが良いかというと、

それは他でもない、僕が1年生であるからである。

…は?…1年生なら友だち作りの為にも大学に早く登校したいんじゃ…?と思う方もいらっしゃると思うが、まあそれも一理ある。

 

オンラインがいい理由は端的に2つ。

①言語の授業が楽に単位が取れる。

②バイトしない言い訳ができる。

 

ただこれだけだ。まあ、さすがに秋以降もオンラインであるようならバイト始めたいところだが、10時ごろに起きて、授業適当に受けて、課題適当に出して、APEXして、YouTube見て、ニコ生見て、最高が過ぎる。まあ就活や院試に明け暮れる上回生は可哀想だけどね。

 

PS. バイトのことタラタラTwitterに投稿してマウント取ってる奴ら多すぎだろ、気持ち悪い。なんというか、自分に酔いすぎなんだよな。

映画レビュー「A Time to Kill」

最近話題のように、アメリカなんかじゃ特に何かにつけて頻繁に人種デモが起きるけど、毎回つまんねえことしてんなあと思ってしまう。僕は、もっぱら性善説主義者なので、表面では意地悪な差別主義者的な奴でも本心はそんなことねえだろうと考えてしまう。だって同じ人間なんだもん。

今回の作品は、まあアメリカらしすぎて現実味がないけど、言わんとしてることは分かるので是非見てほしい作品。

まあとにかく、弁護士の奥さんが可愛すぎるから見る価値はある。